江戸絵画がまるっと分かる!6大ジャンルを一挙紹介! 

以前、江戸絵画の2大勢力、琳派・狩野派の特徴や違いをまとめましたが、「まだまだあるよ江戸絵画!」ということで、江戸時代の芸術文化を形成していった6大ジャンルを一挙紹介していこうと思います。

江戸時代は政治の中心が京→江戸に移ったこともあり、それに伴い文化や芸術の面でも新しいものが次々生まれていきました。

それに伴い、芸術文化のあり方も大きく変わっていきます。

それまで芸術文化をになっていたのは特権階級・支配階級でしたが、江戸時代は日本の歴史上初めて、一般庶民が文化を作っていくのです。

狩野派

狩野派
《唐獅子図屏風》狩野永徳

豪華絢爛な画風が特徴。400年続いた幕府御用達の血族絵師集団。

ここで紹介する流派・ジャンルの中で唯一、狩野派だけが桃山時代から続いています

狩野派最大の特徴は、御用絵師として城や御殿、寺など大規模な装飾を一気に引き受け、集団で制作に当たっていたことにあります。

それができたのも、狩野派が血縁関係で結ばれた強固な集団であったことと、「流派存続」を第一に掲げた弟子の教育体制、特に絵を描く際のお手本「粉本(ふんぽん)」のおかげです。

作画の際、かならず粉本をもとに描くことで、誰が描いても「狩野派らしい」作品に仕上げることができました。厳格な徒弟制度、品質の維持と企画の統一を図った面では中世ヨーロッパのギルド制度にも似ています。

品質・規格が安定していることへの信頼から、狩野派は安土城、大阪城、二条城、江戸城など、歴史を彩る数多くの城の障壁画を任されました。

武家や将軍家から絶大な支持を得て、狩野派は美術史上に類を見ないほどの勢力をほこります。

その一方で、「修行が模写ばかり」「画家の個性を潰している」と批判されることもありました。

しかし、集団・分業制で一つ作品を作っていたからこそ、個人絵師ではなし得ない、豪華絢爛、美麗荘厳な作品を手がけることができました。

血縁だからこその同族意識、粉本による徹底した教育体制と徒弟制度があったからこそ、多少の弱体化にも動じることなく400年もの間、日本画壇に君臨してきたのです。

琳派

燕子花図屏風
《燕子花図屏風》尾形光琳

デフォルメ・オマージュ・デザイン性。先人たちへの憧れが、やがて一つの流派を形成。

狩野派が幕府御用達だったのに対し、琳派は民衆の間で広がっていきました。

今でも人気の高い琳派。最大の特徴は、流派の形成のされ方にあります。

琳派は私淑によって受け継がれていきました。

私淑とは、師匠から直接教わるのではなく、自分の好きな画家の作品を研究し、それに近い作品を作っていく、という絵の勉強法です。

俵屋宗達に尾形光琳が私淑し、光琳を酒井抱一が私淑する、といった風に、狩野派のような血縁や直接の師弟関係を持たず、先人の作品に対するリスペクト、オマージュを軸に形成されていったのが琳派です。

風神雷神
《風神雷神図》俵屋宗達 17世紀前半

時代を超えて琳派のアイコンとなった「風神雷神図」。俵屋宗達がオリジナルを描き、約100年後に尾形光琳が私淑し、そのまた100年後に酒井抱一が私淑します。

琳派とは?を一言で表すのは難しいです。狩野派のように訴訟から弟子に受け継がれるわけでもなく、浮世絵のように決まった様式があるわけでもないからです。

絵師たちがめいめいに、尊敬する先人たちの作品に影響を受けた作品を描いていくうちに、気がつけば一つの流派を形成していきました。

言うなれば、琳派とはジャンル名や様式名ではなく、世代を超えた「私淑」によって引き継がれたセンスの系譜です。

月に秋草図屏風
《月に秋草図屏風》酒井抱一

京都画壇と奇想派

仔犬図
《仔犬図》円山応挙 MIHO MUSEUM所蔵

今でいう「現代アート」。新奇に挑んだオリジナリティ溢れる作品たち。

新奇に満ちた、18世紀の京都画壇。

絵師たちは自分のスタイルを確立させることや、旧来の手法を打ち壊すことに重きを置いていました。代表的な絵師には、円山応挙、伊藤若冲、曽我蕭白、応挙の弟子の長沢芦雪などがあげられます。

中でも特に、京都画壇の革新の源流となったのは円山応挙。透視図法や写実性など、西洋画や中国画の技法をいち早く取り入れ、独自のスタイルを編み出していきます。

京都画壇の写実性には、18世紀初頭から流行した「本草学」が大きく影響しています。本草学は動植物を図鑑にまとめたもので、現代でいう自然科学の一環です。応挙はパトロンとなった三井寺円満院門主・祐常(ゆうじょう)に絵を教える傍ら、本草学の指導を受け、図鑑の記録として動植物の絵を本物そっくりに描きました。

こうした写生の技術を取り入れ、応挙はそれまでの日本美術にはなかった「本物そっくりでわかりやすい」画風を作り出します。これは庶民と絵画の関わり方にとって大きな契機で、文学や歴史に馴染みのない一般庶民も絵画に興味を持つきっかけとなりました。

応挙の活動は瞬く間に京都に広がり、京都中が写生に熱狂しました。当時の様子について、「雨月物語」という小説の著者・上田秋成はこう語っています。

京都に円山応挙があらわれたために、京都中が絵といえば「写生」ということになってしまった。

応挙には多くの弟子がいましたが、型を押し付けることはなく、写生の重要性を説くとともに構図への創意工夫を求め続けたと言われています。

金刀比羅宮表書院障壁画のうち瀑布図
《金刀比羅宮表書院障壁画のうち瀑布図》円山応挙

また、応挙とは違う形で尖っていたのが伊藤若冲です。

緻密な写生技術と斬新な構図やテーマ、奇抜な色づかいで唯一無二のスタイルを確立しました。

京都の青物問屋に生まれ、独学で絵画を学びます。若冲は鶏を飼い、家業そっちのけで観察ばかりしていたという逸話もあるように商売にはあまり熱心でなく、40歳で隠居し本格的に画家活動を始めます。

絵の具は当時の最高級品を使っているため退色が少なく、今でもその奇抜な色彩を見られます。

紫陽花双鶏図
《紫陽花双鶏図》伊藤若冲
《鳥獣花木図屏風》伊藤若冲
《鳥獣花木図屏風》伊藤若冲

禅画

修行を積んだ名僧たちが描いた「禅の奥義」。

禅画の目的はアートではなく、絵を通して民衆に禅の教えを伝えること。

最大の特徴は、プロの画家ではなくお坊さんが描いた絵であること、つまりはアマチュアリズムにあります。

職業絵師ではないからこそできた、それまでの絵画にない、のびのびした画風と自由な構図。

その独自性は結果的に、江戸絵画の新しいジャンルとして注目されるようになりました。

特に有名なのが、白隠慧鶴(はくいん えかく)と仙厓義梵(せんがい ぎぼん)の2人です。

同じ禅画でも、睨みをきかせ迫力のある達磨を描いた白隠と、ゆるっとかわいい仙厓と、その作品は対照的です。

白隠慧鶴筆『達磨図』
《達磨図》白隠慧鶴

白隠慧鶴の達磨図。書かれた文書は「直指人心(じきしにんしん)、見性成佛(けんしょうじょうぶつ)」。

「直指」とは、直ちに指すこと。文字、言葉などの他の方法によらず、直接的に指し示すことをいいます。「人心」とは、感情的な「心」ではなく、自分の心の奥底に存在する、仏になる可能性ともいうべき本心・本性・仏心・仏性といわれるものです。

ですから「直指人心」とは、自分の奥底に秘在する心を凝視して、本当の自分、すなわち仏心、仏性を直接端的にしっかり把握することをいうわけです。

《犬図》仙厓義梵
《犬図》仙厓義梵

「きゃふん」と鳴き声が書かれています。

《指月布袋画賛》
《指月布袋画賛》仙厓義梵

画面左に書かれているのは「を月様幾ツ、十三七ツ」。これは当時の有名な子守唄です。

どうやら布袋さんが子守をしているようです。

月は悟りを、指は経典を表していますが、肝心の月は描かれていません。

実はこのことが重要で、「ただ経典を追っても悟りは開けない。真理はその指のずっと向こう側にあって、自分で探さなくてはならない」という教えを説いているのです。

南画

中国画をもとに生まれ変わった、文化人たちのたしなみ。

南画も、禅画と同じくアマチュアリズム、プロの絵師が描いていたものではありません。文化人、知識人たちによるものです。

絵を描く目的は、技術の披露ではなく、自らの心に描いた風景を柔らかく映し出すこと。

職業絵師が現実の風景を力強く描いたり本物に近づけて写生をするなら、南画は想像の赴くままに、心の中を穏やかに表します。

南画の始まりは、中国の知識人たちが描いていた南宋画です。日本の文化人たちも影響され、熱心に南宋を学びます。

中国の南宋画《夏木垂陰図》董其昌

そこに池大雅、与謝蕪村の二人が独自の技法と親しみやすさを加え、日本では「南画」として独自の変化を遂げていきました。

国宝にもなった有名な作品が、池大雅、与謝蕪村の合同作『十便十宜帖』です。

十便十宜帖とは、隠居生活における十の便利と十の宜いことを描いたものです。

大雅が十の便利「十便帖」を制作し、蕪村が十の宜いこと「十宜帖」を作成しました。

『十便十宜帖』のうち『釣便図』(池大雅)

大雅は自然とともに生きる豊さを描きました。この絵では、隠居生活は船に乗らずとも、家の窓から釣りができる便利さを表しています。都会に住んでいたらこうもいきません。

『十宜図』のうち『宜暁図』
『十便十宜帖』のうち『宜暁図』(与謝蕪村)

蕪村は、自然が四季や時間、天候によって移り変わるそれぞれの良さを描いています。この絵では、夏の蒸し暑さの中で、ふとしたのどかさを感じられます。

2人の影響は近代にも引き継がれ、江戸後期の文化人・渡辺華山も「一掃百態図」を残しています。

一掃百態図
《一掃百態図》渡辺崋山

一見のどかな寺子屋の風景ですが、真面目に勉強しているのは数名だけで、他の生徒たちは思い思いに楽しんでいます。先生も特に気に留めていない、のんびりした様子が描かれています。

浮世絵

本の挿絵からグラフィックメディアへ。庶民が作った庶民のための娯楽

戦国から江戸になり、世の中も平和になると「せっかく生まれたこの命、浮かれて楽しく暮らしましょう」と言う風潮が広がります。

現世を嘆く「憂き世」から、現世を浮かれて楽しむ「浮世」へ。それが「浮世絵」の名の由来です。

肉筆浮世絵もあるけれど、浮世絵というと版画のイメージが強いですよね。

浮世絵がこんなに流行ったのには、版画技術の発展が大きく影響しています。

多色刷りの木版画技術が発達し、大量生産できるようになったこと、庶民にも手の届く価格になったことで、浮世絵はとてつもない伝播力を持つようになりました。

浮世絵の始まりは本の挿絵から。浮世絵の始まりと言われるのは、「見返り美人図」で有名な菱川師宣です。

見返り美人図
「見返り美人図」菱川師宣

最初は無記名で挿絵を描いていましたが、転機となったのが「武家百人一首」です。ここで初めて「菱川吉兵衛(当時の雅号)」の署名が登場します。

このことが意味するのは、絵師の力が認められた瞬間です。これを機に、本の挿絵は段々と独立した絵として鑑賞の対象となっていきました。

菱川師宣 「武家百人一首」千葉市美術館蔵

初期の浮世絵は「墨摺絵(すみずりえ)」と呼ばれる、墨一色だけのものでした。墨摺絵が普及すると、人々はカラーで見たい欲求が高まり、墨摺絵の上に筆で彩色したものが発行されます。

三代目大谷鬼次
《三代目大谷鬼次》東洲斎写楽

しかし、筆で塗るのは手間と時間がかかります。もっと効率的にたくさん制作する方法はないか考えた結果、版画で彩色する方法が発展していきました。色数も、最初は黒、赤、黄、草色、と限られていたのがどんどん増えていき、江戸後期には浮世絵は海を超えて評価の対象となりました。

富嶽三十六景《神奈川沖浪裏》葛飾北斎
富嶽三十六景《神奈川沖浪裏》葛飾北斎

開国、そして日本画へ 

明治時代の文明開化は、日本美術や美術界全体に大きな影響を及ぼしました。

当時の日本画絵師たちは、西洋画の表現と日本画の伝統的な技法を合わせることで、江戸絵画をまた一段と押し上げたのです。