【曽我蕭白】「狂っているのは俺か世間か」まるで現代アートな日本画家
曽我蕭白について
曽我蕭白(1730〜1781)は、京都の丹波屋と言う商家に生まれます。
江戸に支店を持つほど大きな店でしたが、幼いうちに家族をなくし、店も潰れ、蕭白は17歳で天涯孤独となります。やがて絵師となり、一人旅に出て、京都と伊勢、播磨を転々とします。特に、伊勢の寺や旧家では、蕭白が手がけたとされる多くの障屛画が残っています。
室町期の画家・曾我蛇足に私淑したことから蘇我姓を名乗り、京狩野派の高田敬輔(たかだけいほ)に学び、墨絵の流派・雲谷派(うんこくは)にも影響を受けたとされ、奇抜なデフォルメ、強烈な色彩など、他に類を見ない表現で知られます。
また、同世代の、同じ京都出身の絵師に円山応挙がいます。
動植物を本物そっくりに描き、図鑑の挿絵も手がけた応挙に対し、蕭白はライバル心を持っていたようで「画が欲しいなら自分に頼み、絵図が欲しいなら円山応挙のところに行け」と語ったというエピソードもあります。
誰からも受け入れられやすい、写実的な画風で京都一の人気絵師だった応挙に対し、強烈な個性を貫いた蕭白は賛否両論を受けながらも、コアなファンの心を掴みました。
当時の京都はすでに、文化が成熟し、多様性が受け入れられる時代になっていたのです。
《群仙図屏風》
蕭白作品の中で、最も有名なのがこの群仙図屏風です。
中国伝来の、4名の仙人を描いたものです。
1つの作品の中にカラー部分とモノクロ部分が混在することで、緩急のある作品に仕上がっています。
特に人物部分は均一な太さの輪郭線や重ね塗りによるグラデーションで精密に描き、背景の植物などは流れるような筆捌きで描くことで、まるで人物が浮かび上がってくるように見せています。
《雪山童子図》
ジャータカという釈迦の前世譚を描いたものです。
前世の釈迦が、実はインドラ神の化身である恐ろしい鬼と出会う場面です。
赤と青、可愛らしい子どもと恐ろしい鬼、と相対する要素がいっぱいです。
(恐らく)月の光に照らされる釈迦と、影の上に座る鬼もその一つかもしれません。
鬼の角や爪の部分は、まるで現代のイラストにも通じるような描写がなされています。
富士 三保松原図屏風
六曲一双の「富士 三保松原図屏風」の一部です。
左隻に富士を、右隻に三保松原と虹を描いています。
富士と三保松原のテーマ自体は古典的ですが、そこに虹を加えることで、見る人の度肝を抜く斬新さとなっています。
鶴図屏風
禍々しいほどに強烈な個性を放つ一方で、こんな写実性に富んだ作品も残しています。
六曲一隻の屏風に、薄墨を使って二羽の鶴を描いています。
鶴の輪郭線を描かず、代わりに影を施して白い身体を柔らかく表現しています。
また、鶴の頭に施された赤が良いアクセントとなっています。
この作品は蕭白が旅をしていた20〜30代頃に描かれたとされており、絵の具が手に入りにくい中、少ない色彩を効果的に使っていた工夫が感じられます。
雲龍図
蕭白34歳の頃の襖絵で、現在はボストン美術館に所蔵されています。
明治の日本画家・橋本関雪が播磨を訪れた際の記録によると、この流派ある寺に所蔵されており、凄い筆使いで襖一面真っ黒なため相当の迫力で、気の弱いものは一人でいたたまれなかったそうです。
また、そのころの記録によれば、龍は2頭おり、まるで生きているかのようで村人の肝を奪って跳ね出てきそうだったと言います。