女性日本画家!上村松園の代表作を紹介
明治〜昭和にかけて活躍した、京都画壇の女性画家・上村松園(1875〜1949)。
何ものにも犯されない、女性の強さや美しさを表現した、気品あふれる美人画が素敵ですが、考え方や生き方もとってもかっこいい女性です。
1948(昭和23)年には女性として初めての文化勲章を受章しました。
この記事では上村松園の作品の中でも特に、作品にこめられた思いがよく分かるものを紹介していきたいと思います。
上村松園ってどんな人?
上村松園(1875〜1949)は、明治〜昭和期にかけて京都画壇で活躍した日本画家です。
鈴木松年、幸野楳嶺、竹内栖鳳の三人に師事し、当時珍しい女性の画家で、女性ならではの目線で描いた美人画作品を多く残しています。
上村松園、画家としての信念
上村松園の随筆「青眉抄」では、自身の芸術に込めた思いが綴られています。
自分の目指す絵について、松園はこう語っています。
一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵こそ、私の念願とするところのものである。
その絵をみてゐると邪念の起こらない、またよこしまな心を持つてゐる人でも、その絵に感化されて邪念が清められる……といつた絵こそ私の願ふところのものである。
芸術を以って人を済度する。
これくらいの自負を画家は持つべきである。
青眉抄
青眉抄では、松園が生涯で制作したそれぞれの作品に込められた思いや、自身の芸術のこだわり、母への思いなど、上村松園という1人の女性の生き様がひしひしと伝わってくるので少しでも興味があればぜひ読んでみてください。
女は強く生きねばならぬ
遊女亀遊は幕末に実在した横浜の遊女です。
亀遊はアメリカ人の客をとらなければならないとなった時に、
「露をだに いとふ大和の女郎花 降るあめりかに 袖はぬらさじ」
という辞世の一首を残して自害してしまいました。
現代の感覚だと分かりにくいかもしれませんが、これは「外国人は嫌だ」など人種がどうこういう話ではなく、政治思想の話です。
当時、開国したての日本が英米に迎合する中「諸外国の思うままにはさせない」という、亀遊の攘夷の叫びでした。
当時アメリカ人やイギリス人と言えば幕府の役人まで恐れて平身低頭していた時代で、これも何かの政策のために、そのアメリカ人に身を売られようとしたのでありましょう。
女は強く生きねばならぬ——そう言ったものを当時の私はこの絵によって世の女性に示したかったのでした。
青眉抄
「女は強く生きねばならぬ」——まだ女性の社会進出が進んでいなかった時代、男性に混ざって画家として生きる厳しさに対する覚悟と、亀遊の周囲に流されない毅然とした姿勢を重ね合わせていたのではないでしょうか。
さらに、この絵に関しては、松園の心の強さを表すエピソードがあります。
この絵は、明治37年、京都の新古美術博覧会に出品されたものです。
この絵は相当評判になって、会場では常に絵の前に人だかりが絶えなかったようですが、ある事件がおきました。
松園の画が人気なのを妬んだのか、誰かが隙を見計らって、亀遊の顔に鉛筆でぐちゃぐちゃに落書きをしてしまったようです。
それに気づいた事務所の人が松園の家にやって来て、みっともないから朝のうちに来て直すようにと言ったそうです。
しかし松園はその頃「女は強く!」と心から叫んでいたので、妬んで人の絵に落書きする行為はもちろん、事務所の人が何の謝罪もなく、責任のない顔をしていることも気に入りませんでした。
いっそこういう事実があったと世間に見てもらおうと、「かまいませんからそのままにして置いて下さい。こっそり直すなんて、そんな虫のいい事はできません。」と答えたそうです。
事務所の人も最初は侮った態度だったのを、松園の気迫に圧されて自身の取り締まり不行届を謝ってくれたそうですが、犯人は結局判らずじまいだったようです。
その後、亀遊の絵を買いたいという人が現れたので、ウグイスのフンで吹いたら綺麗になったそうです。
えぇーーー!!!って思いましたが、古来より着物の染み抜きにも使われることもあったそうなので、まぁ納得です。
絵の題材に選んだものといい、展覧会での対応といい、松園の気骨やプライドが感じられるばかりです。
焔
正統派な美人画が特徴の松園の中では、異色の作品です。
2021年春に行われた「あやしい絵展」にも登場しました。
「源氏物語」に登場する六条御息所がモデルとなっています。
源氏物語の舞台は平安時代ですが、この絵の服装は能が盛んだった桃山時代のものを取材して描かれています。
どうして、このような凄艶な絵をかいたか私自身でもあとで不思議に思ったくらいですが、あの頃は私の芸術上にもスランプが来て、どうにも切り抜けられない苦しみをああ言う画材にもとめて、それに一念をぶち込んだのでありましょう。
中略
行きづまったときとか、仕事の上でどうにもならなかった時には、思いきってああいう風な、大胆な仕事をするのも、局面打開の一策ともなるのではないでしょうか。あれは今憶い出しても、画中の人物に恐しさを感じるのであります。
青眉抄
松園は能楽を習っており、自身の師である金剛巌先生に、ふと、嫉妬する女性の美しさを描くことの難しさを漏らしたそうです。すると金剛先生は、
「能の嫉妬の美人の顔は目の白眼の部分に金泥を入れており(泥眼)、金が光る度に異様な輝きがあり、また涙が溜まっているようにも見える」
と教えてくださったそうです。
それを元に松園は、絹の裏側から金泥を塗り、すると眼があやしく光って思う通りの表現ができたそうです。
優美なうちにも毅然として犯しがたい女性の気品
この絵は松園の理想の女性像で、自身でも気に入っていたそうです。
優美なうちにも毅然として犯しがたい女性の気品を描いたつもりです。
何ものにも犯されない女性の内に潜む強い意志をこの絵に表現したかったのです。
青眉抄
松園は衣装から髪型、動きと細部までこだわって練り上げたそうですが、特に、捲れた右の袖は激しい動きの後の静寂を表し、美しい曲線が生まれ、絵も生き生きしてくると気に入っていたようです。
髷のふくらみ、びんの張り方、つとの出し方が少し変わっただけでも、上品とか端麗といった感じが失われてしまいます。
そういう細かい点にはいってくると、女の方でないと、男の方にはとてもお判りになりません。
その点についてはずい分と苦労しました。
青眉抄
松園は芸妓を描く場合にも、粋な艶かしい芸妓ではなく、意地や張りのある芸妓を描くので、多少野暮ったい感じがすると言われたこともあったそうです。