葛飾北斎の名作、あの波の絵はやっぱりすごかった! 【神奈川沖浪裏】

誰もがきっと一度は目にしたことがある、葛飾北斎のあの波の絵。

現代でも多くの美術館に展示されるだけでなく、いろんなグッズやプロモーションでも使用されています。

1番身近なものだとiPhoneの絵文字にも使われています。🌊

この記事では、時代を超えて字と他人を魅了し続ける北斎のあの「波の絵」について紹介していきます。

動画でも紹介しているので、よかったら見ていってください☺️

ところで北斎の「波の絵」ってどんなの?

この波の絵、正確なタイトルは「神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)」と言います。

こちらは「富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)」という、北斎による浮世絵シリーズの中の1枚になります。

富嶽三十六景は、さまざまな場所・角度・時間帯から見た富士山をテーマとした一連の風景画シリーズで、1830〜1833の3年間かけて制作されました。「三十六景」と言いますが、実際には46枚あります。

また、この絵のタイトル「神奈川沖浪裏」を現代語に訳すと、「神奈川の波の下」という意味になります。

この絵の中で、波の下とは2つの意味があり、一つは漁師たちと彼らを乗せた船、もう一つは遠方に見える富士山です。

この絵は漁師たちが江戸に魚を届けた帰り道、神奈川で荒波に遭遇してしまったシーンを描いています。タイトル的には「波の下」という、漁師や富士山からの目線になっていますが、大波の構図があまりに印象的なので「波の絵」と言われることが多いです。

葛飾北斎について

葛飾北斎は、1760年、江戸、今の東京の葛飾区のあたりに生まれます。

日本だけでなく世界的にも有名な浮世絵画家として広く知られています。

「浮世絵」とは江戸時代に流行した絵のジャンルです。

絵の題材には庶民の日常生活や、当時の人気役者、観光スポットなどが取り上げられることが多く、値段もリーズナブルで、一般市民の間で広く親しまれていました。

一部「肉筆浮世絵」と呼ばれる、筆で描かれた絵もありますが、基本的には版画で制作されることが多いです。

富嶽三十六景は北斎の代表作の一つで、全ての絵に見えるさまざまな大きさ、視点の富士山と、後述する"北斎ブルー"こと紺青が印象的なシリーズ作品となっています。

神奈川沖浪裏は西洋画の影響も受けていた?

富嶽シリーズの中でも有名な、神奈川沖浪裏が描かれた当時、日本は江戸幕府のもと鎖国体制にありました。

その影響で入ってくる海外に関する情報はかなり少なく、北斎の波の描き方も、琳派の巨匠である尾形光琳の影響を受けたのではないかと言われています。

尾形光琳の波の絵
尾形光琳《波図屏風》

言われてみれば、波の先端部分の描き方は確かに似ているような気がします。

しかしその一方で、この制作にあたり、北斎は西洋画の影響も受けていたのではないかと言われています。

その理由は2つあります。

  1. 西洋画由来の構図
  2. 紺青(ベロ藍、プルシアンブルー)の使用

まず構図ですが、北斎は神奈川沖浪裏の中で、西洋画由来の、奥行きを意識した構図をとっています。

具体的には富士山の部分に一点透視図法を利用し、また波の部分や富士山の周りの影の付け方を平行線を意識した構図にすることで、絵に奥行きを持たせています。こうした技法は西洋画によく見られるものなので、北斎が西洋画からも影響を受けていたのではないかと言われています。

また、使用している色です。

この絵には紺青=ベロ藍、プルシアンブルーが使われています。

実は神奈川沖浪裏だけでなく、富嶽の全シリーズの絵すべてに紺青が使われています。

これはヨーロッパから持ち込まれた人工的な合成色素で、当時の日本にはかなり新鮮でした。

当時の多くの浮世絵でも流行のカラーとなったのですが、特に富嶽シリーズ内での使われ方があまりにも印象的なので現代でも"北斎ブルー"と呼ばれることもあります。

北斎の死後、急速に広まったジャポニズム

1849年に北斎が亡くなってから5年後、1854年に日米和親条約が結ばれたのをきっかけに、日本の美術品も世界へと輸出されるようになりました。

1867年のパリ万博では、葛飾北斎や歌川広重を中心とした浮世絵も多く出品され、これを機に日本の浮世絵は世界で一気に有名になります。

こうした動きは「ジャポニスム」と呼ばれ、モネ、ゴッホなどの画家にも影響を与えます。

浮世絵

Posted by Yuhomyan